「遍路墓」
「道の辺に 阿波の遍路の 墓あはれ」 高浜虚子
これは88番・大窪寺(おおくぼじ)への途中にある山坂に無縁仏として葬られた昔の遍路の墓を詠んだものという。
古くは遍路道や宿泊設備が整備されていなかったし、信仰による奇跡を期待して不治の病を承知で遍路に出たり、故郷を捨てて乞食のようにお四国を廻ったりする場合もあったらしい。従って道の途中で斃(たお)れる人も多かったのだろう。遍路のユニフォームの白衣は死装束とも言われていて、そのまま野辺に埋められ無縁仏として粗末な墓石が建てられるのがせいぜいであったようだ。

特に最終の目的地を目前にしながら、体力が尽きて険しい女体山の岩場を越えられず果てた遍路の運命は哀れだ。虚子の時代にはそれらの遍路墓は大窪寺の手前にあったようだが、現在は大窪寺から県道に出る直前の左手の平地に墓石が纏めて並べられている。
このような遍路の墓は外にもルートの各所で見受けた。

10番・藤井寺への坂道の途中にあったものは、周りに咲く秋の盛りの鶏頭の毒々しいような赤い花が、無縁仏の無残さをより一層強調していた。
そして56番・泰山寺(たいさんじ)からの畑中の遍路道を辿り、蒼社(そうじゃ)川の土手に至る手前の雑木林にもいくつかの遍路墓の集合があった。そこでは近所の60代の婦人が一人、ヴォランテイアで掃除をしていた。彼女によれば、この場所は戦前には川に橋がなく、渡し船があった所で、江戸時代には船を待つ乗客を当てに托鉢をしていた乞食遍路が多くいて、そのまま力尽きて死んだのだろうと言います。彼女はこの辺りの遍路に関する資料を集めているそうで、いろいろ話してくれた。

スペインでは、近年の巡礼中に病死した人の墓標や記念碑(その中には日本人のものもあった)が立っているが、お四国には最近の遍路の墓碑を見かけないのはどうしてだろうか。近年の日本では、病気や怪我で斃れた場合でも一旦は病院に収容し、遺体は故郷に葬るからなのだろうか。


