「宗教的な雑感」
無宗教な私でも遍路を歩きながら、仏の縁を感じ、悟ったような気がすることもあった。
(その1)11月7日早朝、44番・大宝寺の参道を、般若心経の説く「空」とは何かと考えて歩いていたが、その時、空の雲が切れて高い杉の上から朝日がサッと筋になって照らした。一瞬、何故か大師の声を聞いた気がした。「この世界をありのまま見ればよい。全ての現象が、無限の因果関係で繋がっているのだ。どれ一つとしてそれ自体で存在するものはない。それが空だ。空とはむなしさではなく、時間的・空間的に満ち溢れたものだ。」その時には心経の中の「是諸法空相」が分かったような気がして、思わず周囲を見回した。

(その2)松山市内、46番・浄瑠璃寺から次の八坂寺へ向かったのは秋の陽が沈みかけた頃。路傍に古い墓石が並ぶ辺り、果樹園の上に羽虫が無数に飛んでいた。普段から、一神教か多神教か、大きな疑問だった。論理的には絶対的存在者は一つであるべきだが、いかに万能な神といえども、この宇宙のあらゆる現象を細大漏らさず律することが出来るか。しかも全ての生物には意思が備わっている。例えばこの羽虫、数千の極微な存在だが、一匹づつに長いDNAの歴史があり、それぞれ隠れた生への意思を持って飛んでいる。お互いに競争し、環境や天敵とも戦っている。全てを一人の神が見守り、調和を維持することは、論理的には可能であるが直感的には納得し難い。羽虫の世界を律する「羽虫大明神」がいて、一匹づつの運命を見ているとする民俗信仰のほうが無理がない。又厳密には無神論の仏教だが、密教では、生きとし生きるものには曼荼羅世界の中で夫々に如来が司る結界が与えられ、その領域で行き続ける努力をして行くと説くが、それは多神教に等しいのでは、などと考えた。
(その3)雲辺寺を下った辺りの岩鍋池、鴨の一群が遊弋していた。ここに棲みついた留鳥なのか、渡りの途中で羽を休めているのか、それとも渡りの終点なのか。その時遍路の笠に書かれた句「迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北」を考えた。過去に囚われず、未来を予想せず、現在の場所と今の瞬間を全力で生きることで、この世、あの世も超越出来るのか?


