「例幣使街道の歴史を歩く」
I.始めに
最近、古い街道を辿って、沿線の自然や文物を訪ねる旅が流行っているようで、TVでもよく紹介されている。私も、2010年5月16日から23日までの一週間、旧「例幣使街道」を尋ねて、約150キロを歩いてきた。といっても、「それ何の街道?何処にあるの?」という疑問を持つ方が多いのでは・・・
1.「例幣使街道」とは?
江戸時代、朝廷は、家康の霊廟「日光東照宮」に尊崇の意を表するために、例年四月十七日の家康命日の大祭に金幣を奉呈する勅使を派遣した。これを日光例幣使と呼び、その行列は京都から中山道を下り、碓井峠を越えて上州高崎の南で分岐して東進し野州栃木から北上して日光に至った。このルートを正式には「中山道日光例幣」一般には「例幣使街道」と称した。
勅使一行が通るのは年に一度だけである。その他の時期、街道には飛脚によって書状が運搬され、商業・産業道路として物資が輸送され、庶民が寺社参詣や物見遊山などのレジャーのために通行するなど、北関東地域の発展に貢献した。
現在、この街道に沿った群馬・栃木両県のいくつかの都市が協力して、この街道にスポットライトを当て、観光資源として取り上げようとの試みが進んでいるらしい。そんな公的なプロジェクトとは別に、私はこの街道を歩きたいと以前から考えていた。その動機・背景について話しておこう。
実は、私はこの例幣使街道のほぼ中央に当たる宿場「八木」(現足利市福居町)で生まれ、高校時代までを過ごした。西に上州の赤城山、北に日光の男体山を仰ぎ、遥か南に富士と筑波を遠望しながら、関東平野の北縁を廻るこの街道沿いの一帯「両毛地方」(群馬=上毛コウズケ、栃木=下毛シモツケ)こそ、私のDNAの根源があり、人間形成の背景となった場所である。少し大袈裟な言い方をすれば、そんな父祖の地を経巡ることを通して、自分の奥底に沈んでいる存在の原点を見直そうという意図から出たものであった。近代化とグローバリズムの波によって、急速に消去されていく地方の文化的な景観、そして何よりも、長らく離れていて自分でも忘れつつある、懐かしい土と風の匂いを思い出そうと考えて、出発したのだ。
これまで私は、スペイン・四国・熊野という異郷を歩く巡礼の旅をしてきた。そこでは毎日新しい景観に遭遇し、異質な精神風土に出遭った。そこで私が期待したものは、生への決別が近い老境にある身として、次の世に備えるべき「聖なるもの」であった。一方、今度の旅では、残り少ない今生の原点とも底流ともなっている「俗なるもの」を見詰め直し、早晩別れを告げなければならない我が生の基盤を再確認して置きたいと考えた。
目次
Ⅰ.始めに(旅の動機など)
Ⅱ.ルートと行程
(五街道と例幣使街道の略図、街道沿いの宿場の比較表、例幣使一行の日程。)
Ⅲ.宿場別の写真と紀行文
-01. 倉賀野 -02. 玉村
-03. 五料 -04. 柴
IV. リンク (街道沿いの人物・文化の説明)
01.萩原朔太郎 02.佐野の渡し
03.小栗上野介 04.国定忠治
05.木崎音頭 06.高山彦九郎と尊号事件
07.古墳 08.八木節
09.古代道路システム 10.飯盛女
11.梁田戦争 12.田中正造
13.エラスムス像 14.出流山天狗事件
15.山本有三 16.二宮尊徳
17.例幣使街道の殺人事件